講師紹介

桑田雅子(くわたまさこ)

1982年 栃木県栃木市に生まれる
地元にて栃木市立寺尾中学校、栃木県立栃木女子高等学校を卒業
2000年 国立音楽大学 音楽教育学科に入学

2004年 同大学卒業と同時に中高音楽教諭1種取得

2004年 株式会社グローバルに就職

2009年 プルデンシャル生命保険株式会社に転職

29歳まで会社勤めをしながら、休日に個人レッスンに通ってピアノ、声楽ともに勉強を続ける

<これまでに師事した先生方>ピアノ・声楽

金田初江氏、中村元子氏、石関舒子氏、木村圭子氏、澤木和彦氏

現在はリリカイタリアーナオペラ研究所の研究生としてベルカントオペラを勉強中。アドリアーナルクヴルール(ジュヴノー役)リタ(リタ)、仮面舞踏会(アメリア役)等。

2019年リゴレット(チェプラーノ夫人・小姓)予定。2017年は慰問コンサートや友人に企画するコンサート含め年間10回ほどのコンサートに出演しました。オペラで役を歌うことと同時に、ピアノ演奏では現在もピティナステップ等を通して人前で演奏する立場や心持を忘れないようにしています。

ピティナの指導者会員

 

 

 

 

 

 

音大生活~ピアノ講師になるまで

大学生活

大学時代はアルバイトに友達との夜通しのおしゃべり、学校の授業も私生活も本当に充実した楽しい4年間だったと思います。
キャンパスの中庭には個人練習している管楽器の音が響き渡り、校舎の窓からはピアノや歌がいつもきこえてきました。

子供のころからポップスミュージック等にはあまり興味関心がなく、古い時代の音楽に心が揺れるような思いをしていた私にとって、クラシカルな音楽がいつも鳴り響くキャンパスは、私にとっては夢のような場所でした。

近代建物の窓越しに聴こえても、偉大な作曲者の音楽は本当に美しい。

私の通った音大では年に1度の秋のころに門下の発表会、後期に実技試験がありました。1年間、週に1度のレッスンを重ねてきた勉強の成果の発表の機会です。緊張との向き合い方や、自分の準備の仕方、ウィークポイントを自覚せねばならない機会でもあり、大きな成長の場だったっと思います。

今でも同じ時期になると本番に演奏した曲が頭の中を勝手に流れたりします。

4年次には、青木靖子氏のゼミ・ピアノ指導法を選択しエチュードについて研究しました。
卒業研究は、フレージング指導ための教則本としてバイエルの第二巻に日本語の歌詞を当てはめて1冊をまとめました。
日本語のアクセントとフレージングのアクセント位置を一致させなければいけないので、とても苦労しましたが、最初で最後のピアノ指導における教則本制作のチャレンジでした。

 

大学卒業後

楽しかった大学生活もあっという間、好きな分野に進学できたことはよかったですが、残念ながら音楽の分野で食べていける可能性は限りなくゼロです(私の場合です。一概ではありません。)

卒業後も東京で生活していくことを考えていた私は一般会社に就職することにしました。

2004年、新卒で大豆食品を扱う一般会社に就職。

(現 株式会社グローバル伸和製薬)

その後20代で転職もし、一般社会で働くことや生きることを身をもって体験してきましたが、音楽とは無縁の会社勤めにて20代のほとんどを終えました。
貴重な若かりし自分の20代、正社員としてではなくアルバイトしつつでも、もっと音楽に時間を費やしていれば、、、なんて思うこともなくはないですが、この経験があるからこそ、いまも真摯に音楽に向きあえる自分がいるのだろうと思います。

社会人時代の経験が今やこれからの私を支えていくことになるのだろうと思います。

 

29歳のときに仕事の多忙やストレスで体調を崩したことがありました。

これをきっかけに、「やっぱり好きなことをして生きていこう」と自分の教室を立ち上げることにしました。

 

ピアノ教室を始めて

2011年新橋にて、新橋音楽教室を開講。

はじめは生徒さんも少なかったので、週3の派遣社員、単発のバイトなどを掛け持ちしながらのピアノ講師でしたが、私を頼ってくれる生徒さんたちとともにたくさんの“いい音、いい響き、いい音楽”を共有することができました。

体力的には会社勤めの何倍も負荷がありましたが、なぜか毎日とても充実していました。

音楽の不思議な魅力のおかげで、心がとても満たされていたのだと思います。
また、このころは会社に勤めていた時期とは異なり、たくさん演奏や自分の楽器(発声)と向き合う時間がありました。今ふりかえると、このころに自分の勉強がたくさん進んだようにも思います。

そしてそれが今の私の音楽ライフに生かされています。

 

その後、結婚出産、こどもが3才になるのを機に新橋の教室を閉講(2017年)。

 

2019年 雪谷大塚自宅にてピアノ教室開講。

現在に至ります。

私の幼少時代、ピアノはどんな存在だったか?

楽譜が読めなくてピアノが嫌いだった幼少期

4歳で大手音楽教室のオルガングループレッスンが最初の音楽レッスンのスタートでした。
そのまま周りに倣うようにピアノ個人レッスンへ進みますが、その頃はあまり音楽が楽しいとか、素敵だとか、そんなことを感じた記憶がないですね。
ただ1曲、レッスンの最初にみんなで歌う歌があったのですが、とっても素敵なメロディーでその歌は“毎回歌うのが楽しみだった”ということを覚えています。

ピアノの個人レッスン内容はなにをやっているのかほとんど、いや、全く理解していなかったと思います。
家では1週間1度もピアノに触らず、レッスン当日に母親に促され、なんとなくピアノに座りなんとなく弾いてみる。
クエスチョンがたくさんあったけどよくわからないままレッスンへ。
当然まったく弾けません。
先生が音符をリンゴに例えて、これはリンゴ半分と同じだから(八分音符)、と一生懸命リンゴの絵をテキストに書いていたけど、なぜここにリンゴが出てくるのか??リンゴが半分で、、、だからなんなの??頭の中に?????をたくさん浮かべながら、ひたすらレッスン時間が過ぎるのを待ちました。

 

楽譜が読めるようになりクラシック音楽の素晴らしさを知り始めたころ

小学校2年の時でした。
仲の良かった友達のお母さんから、「いいピアノの先生がいるよ」と勧められ、母と姉とその先生を訪ねることになります。
これが、今後、私のクラシック音楽の大好き人生を歩んでいく第1歩だったかもしれません。
初対面のピアノの先生。
銀縁の眼鏡をかけていて、ピンクのアンサンブルニットにひざ下たけのグレーのスカート、前髪はぴっちり斜めに、髪全体は1つに後ろでまとめられたTHE教師スタイル。
とても近寄りがたい雰囲気を持った先生でした。
「今までやっていた曲を弾いてみて」と言われました。
楽譜をピアノの譜面台に手で抑えつけるようにしてで開こうとしたら、「そんなことをしてはダメよ!ピアノがかわいそうでしょう!」といきなり怒られました。
「ビクッ」っとなって動揺もひどくしたけれど、私はその後その先生のことをどんどん大好きになっていくのです。

 

この先生のレッスンに通うことになりこれまで抱えていた、なんかよくわからない、いつも頭にクエスチョンは徐々になくなっていきました。
先生の指導は本当に素晴らしかったのです。
楽譜の読み方をわかりやすく教えてくれたこともそうですが、なにより、音楽ってこんなに素敵で、素晴らしいものだとということを、感じられるようになったのがこの頃からです。
これ以降、クラシック音楽に独特の魅力があるものだと理解するようになります。

私の子供のころのテキストを振り返ると、先生の文字でこんなことが書き記されています。

・音と音を心でしっかり繋ぎながら

・ゴツゴツしないように。心の風船をふくらませながら

・指1本1本にはりがねが入っているような気持ちで

・バスケットボールでドリブルをするときに、床でボールをつくように   etc.

(書いてあるテキスト・楽曲やパッセージはそれぞれ別の箇所です。)

 

楽譜に書いてある音をただ鳴らす、というだけでなく、音楽をどのように表現するか、どのように弾き分けて求められる音を出すののか、その方法を指導してくださっていたことがよくわかります。

 

この動画は先生を移って1年後の発表会。

フレーズの美しさをきちんと自分で感じながら弾いています。

さらにその後のピティナのコンクールの動画です。

肩・腕の脱力はまだまだですが、1音1音丁寧に練習してきたことがわかります。

(当時のVHSの映像のため、音質や画像が悪いですが^^;、調律等の問題ではないです)

 

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